新潟地震50周年を迎えました

 

新潟地震 信濃川を逆流する津波

信濃川を逆流する津波

 

新潟地震 柾谷小路を家路へ急ぐ人々

柾谷小路を家路へ急ぐ人々

 

昭和39年6月16日午後1時。マグニチュード7.5の地震が突発しました。
幼稚園では昼食が終わって、子どもたちは園庭で遊んでおりました。突然の地震と共に園庭のあちらこちらからガス臭い泥水が噴出しました。(新潟の地盤は信濃川の堆積物に依る砂地の為に液化現象となったものです。)
園庭で遊んでおる子どもたちは地震の体験はありませんので、いつもの様に遊んでおります。園長の指示のもとで先生たちは、完成したばかりのコンクリートの園舎2階へ誘導・集合させました。
地震がおさまると直ぐにお父さん・お母さんはじめ保護者の皆さんがどんどんとお迎えに来園されました。
しばらく遅れてから沼垂・山の下方面の保護者の方々がお迎えに来園され、山の下、臨港町方面は信濃川から津波が押し寄せ、道路も寸断されて大変だったとのことでした。
それでも夕方までに殆どの子どもたちを保護者にお渡ししましたが、3人の子どもたちのお迎えがありません。日も暮れはじめた頃、ヘリコプターが園舎の上でホバーリングしています。外へ出て見ますと、ヘリコプターから通信筒が赤い尾を引いて落ちてきました。
ヘリコプターは、海上保安庁のものでした。通信筒の中のお手紙には「臨港町は津波で被害して動けません。子どもたちを明日お迎えに行くまで預かってほしい」と三名の子どもたちの名前が書いてありました。先生たちも自宅へ帰らず幼稚園の2階で一緒に泊まることとなりました。ガス・水道・電気等ライフラインは止まっております。さて、飲料水はどうしようか・・・と心配しましたが、新築したばかりの2階建園舎には屋上に大きな貯水タンクがありましたので水の心配はありませんでした。
おにぎりやお汁を作って皆で頂きました。ローソクはお寺に沢山ありますから、明るくして紙芝居や絵本を読んだりして、毛布にくるまって一晩過ごしました。
翌朝泥のついた洋服でお父さん・お母さん方がお迎えにおいでになって無事全園児をお渡しできて一安心でした。
この年の6月6日には第19回の新潟国体の開会式が白山グラウンドで開催されて、天皇・皇后両陛下が行幸されましたが、お帰りになった直後のことでした。
「災害は忘れた頃にやってくる」と申します。東日本大震災から3年余経過しました。その上福島原発汚染事故。まだまだ被災された皆さま方のご心労を思う時、胸が痛みます。保護者の皆さま方、「地震・津波」など突発する大変なことになったら、可愛い子どもたちの幼稚園はどうするのだろうと、ご心配のことと思います。このことにつきましては父母の会で、お手元に「いざという時の心得」をプリントしてお渡しいたしました。どうぞご覧になってお手元に置いてください。(園長:今湊良敬)

 

昭和39年6月被災前の新築園舎

被災前の新築園舎(新潟地震により地盤が陥没しました。)

 

毎年、春に全園児参加による避難訓練を行います。保育室から園庭の欅の下に一斉に避難します。

春の避難訓練1 春の避難訓練2  春の避難訓練3春の避難訓練4

 

津波の襲来を想定して、毎年、秋に全園児参加による高所避難訓練を行います。

保育室から園庭に集合して、西堀通りを通って近くの「ホテルイタリア軒」様の2階に避難させていただきます。

秋の避難訓練1 秋の避難訓練2 秋の避難訓練3 秋の避難訓練4 秋の避難訓練5 秋の避難訓練6

 

2014年5月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : ahjk7h65f89yq3iot6o4